おはようござます。渋澤健です。

新しい年が明けたと思ったら、もう1月が終わって、2月に入りました。ちょうど1年ぐらい前に新型コロナ・ウイルスがダイアモンド・プリンセス号と共に日本に上陸したことが感知され、不安が広まりました。でも、誰も想像しなかった(あるいは、したくなかった)でしょう。まさか1年後にも新型コロナ・ウイルスのパンデミックが世の中で収まることがない事態を。

この1年で多くのことが変わりました。でも、変わらないものもあります。例えば、この景色のように。

土曜日に訪れた逗子海岸の風景です。去年の今頃でも同じような風景を楽しむことができたでしょう。60年ぐらい前に、自分が生まれてから3歳ぐらいまで暮らしていたところなので、全く同じ風景を当時でも眺めていたのかもしれません。変わらない風景にほっとします。

だからでしょうか、定常状態を好み、変化を苦手とする傾向があります。変化は不確実性、つまり、リスクですから。

そういう意味で、最近、悶々と考えていることがあります。それは成長です。成長とは変化です。だから成長にはリスクがあります。そして、成長は投資に不可欠です。

でも、ずっと成長が続いたら、どうなるのか。

例えばガンはずっと成長のスイッチが入った状態の細胞です。他の細胞の存在にお構いなしに。だから、いずれ身体は死にます。身体が死ねば、ガン細胞も死にます。

人間って、地球にとってガン細胞みたいな存在ではないかと、ふと思うときがあります。だから、「脱成長」を訴える意見、言いたいことがわからない訳でもない。

でも、社会全体が成長しなければ、パイが大きくならない定常の場合、その内でのリアロケーション、つまり、奪い合いが生じて、住みやすい豊かな社会とは言えないように思います。

だから、資本主義は成長を求めるから格差を生み、格差を生む資本主義は悪であるという考え方には賛同できません。

悪いのは資本主義ではなく、人間ですから。資本主義が格差を生むのではなく、人間が格差を生んでいるのです。

では、どうするか。私のお爺ちゃんのお爺ちゃんである渋沢栄一だったら「論語と算盤」と言うでしょうね。道徳(人間社会)と経済(資本主義)の合致です。今風にいえば、サステナビリティとインクルージョンです。

持続可能な成長なんて空想だという批判もあるかもしれません。地球や人間社会の持続可能性のためには成長を止めなければならないという批判。持続可能なんてキレイ事より成長が全てという批判。

でも、宇宙は常に膨張しているようですし、生物は常に成長して(死滅して、子孫を残すこと)を繰り返しています。成長は生物の本能です。

そして、キレイな事が、なぜ否定されなければならないでしょうか。むしろ、海と富士山のキレイな風景が成長の公害や廃棄で見えなくなることが否定されるべきです。

人間は豊かさを求めます。もしかすると、豊かさと成長の関係は新陳代謝かな?海と富士山の風景は変わっていませんが、そこには数えきれないほどの見えない新陳代謝があります。

ま、老荘思想的には人間とは、象の背中に乗っている蟻みたいな存在なので、その蟻たちが「成長だ!」「脱成長だ!」と叫んでも、象(「天」)は気づくことがないということもかもしれないなぁと、映画鑑賞とウェビナーがセットになっている面白いイベントの登壇を経て、悶々と考えながら帰りの逗子駅に向かっていたら、ちょっと感じが良いお店が視界に入りました。プリンって、富士山にちょっと似てません?キレイな風景です。すぐに形は消えましたが… 定常な豊かさは、、、ない? けど、新陳代謝は、ある? 

 

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