2020年8月、エーザイ株式会社が発行した「統合報告書2020」では、日本企業として初めてESGの取り組みが企業価値の向上につながることを立証する実証実験の研究成果を公表しました。
エーザイ株式会社の統合報告書への取り組みを、同社IR部アソシエートディレクターの小山晃一郎さんに伺います。


エーザイといえば「ヒューマンヘルスケア(hhc)」

渋澤  小山さんは薬学博士という学位を取得している研究者でありながら、今は企業のIR担当者として日々、投資家と向き合っておられますが、まずはこれまでのキャリアについて教えていただけますか。

小山さま  エーザイは認知症やがんの治療薬に注力しておりますが、入社して8年間は乳がんの治療薬研究に携わりました。日常業務を繰り返すなかで、患者さんへの貢献度を高めるにはエーザイをより良い会社にする必要があり、そのためには社員の生き甲斐、働き甲斐を高めることが重要であるという考えに至って、労働組合に出向しました。

労働組合では営業部門や生産部門など、それまで交流が無かった他部署の人たちや、経営側の人たちと人間関係を築くことができ、現場が抱えている問題点、悩みだけでなく、経営側が何を考えて経営をしているのかということも学ぶことが出来ました。

そして今はIR部に所属し、見えない価値を見える化するためにはどうすれば良いのか、という課題に取り組んでいます。

渋澤  エーザイといえば「ヒューマンヘルスケア(hhc)」という言葉を思い浮かべるほど、その言葉が浸透しています。

エーザイHPより

小山さま  そうですね。hhcはエーザイの企業理念であり、患者さんとその家族第一主義を掲げています。2005年の株主総会でhhcが定款に規定され、株主とも共有させてもらっています。

企業理念は使命と結果の順番が大事です。売上や利益を追求する前に、患者さんの満足度を高めることに注力する。その結果として、売上や利益が増大するという考え方を重視しています。

渋澤  hhcという企業理念を定款に盛り込んだことはもちろん素晴らしいのですが、御社では役員、研究員、営業や生産部門に至るまで、すべての社員が勤務時間の1%を実際に患者さんと時間をともにすることに費やされているのが素晴らしいと思います。

小山さま  そうですね。私は研究員としてエーザイに入社し、困っている患者さんのために新薬を開発しようと意気込んでいたのですが、いざ研究員になると日々の研究に忙殺されてしまい、なかなか患者さんを思い浮かべるのが難しくなります。

そういう時にhhc活動の一環として病院に出向き、小児がんの患者さんに科学の面白さを伝える「お出かけ実験室」という活動に関わりました。

自分としては子供たちに科学の面白さを伝えることで、将来、元気になった時、いろいろなことに挑戦してもらいたいというメッセージを込めたのですが、逆に子供たちと接することによって自分たちが励まされる気持ちになることもたくさんあり、モチベーションの向上につながりました。

渋澤  企業理念を額縁に飾り、社長室などに掲げている会社は結構あるのですが、エーザイの場合、全社員が患者第一主義を自分事として捉えているのと共に、それを頭の中で考えるだけでなく、実際の活動に活かしているところが非常に良いと思います。

エーザイの情報開示

渋澤 ところで御社の場合、どのような新薬開発のパイプラインがあって、それぞれどのフェーズにあるのかについて、しっかり情報を開示していらっしゃいます。ただ、これは製薬業界社全体に言えることだと思うのですが、新薬開発が成功するか失敗するかによって株価が大きく動くため、投資家のなかには、その動きを見てハラハラドキドキしている人もいると思います。新薬開発の成否が経営に及ぼす影響について教えて下さい。

小山さま  私どもの決算説明会では、決算に関する説明はほんの少しで、多くの時間をパイプラインの説明に費やさせてもらっています。これは製薬会社の成長にとって、各パイプラインが今、どのようなフェーズにあって、他社に比べてどれだけ差別化されているのかが大事だからです。

新薬開発はすべてが成功するわけでなく、リスクも相応に高いのですが、弊社としてはhhc理念をもとにして、患者さんのために何が出来るのかということを熱い想いで常に考えています。また、ひとつのパイプラインが失敗に終わったとしても常にバックアップを持っていますし、今まで認知症やがんで培ってきた知見もあるので、会社の事業全体ではリスク分散が図られています。IR担当者としては、そこを投資家の皆さまと共有できればと考えています。

末山  シニアアナリストの末山です。今、エーザイさんを担当しているのですが、確かに今、足元の株価はかなりボラタイルなので、ドキドキされる投資家の方は多いかと察します。

ただ、小山さんが今、おっしゃられたように、決算説明会の大半をパイプラインの説明に費やしている点は、投資家として非常に安心できますし、同業他社でもここまで時間を割いてパイプラインの進捗について説明しているところは、ほとんどありません。

また、小山さん自身も薬学博士であり、本来なら研究開発部門にずっといるべき人を、IR部門の担当者に据えているのが、エーザイの底力でもあると思います。

 

左から、エーザイ小山さま、コモンズ投信会長渋澤、シニアアナリスト末山

 

見えない価値の見える化

渋澤  内藤晴夫代表執行役CEOがエーザイの代表取締役社長になられたのが1988年ですから、かれこれ30年以上にわたってトップとして活躍されています。会社における存在感はどのようなものですか。

小山さま もともとhhcという企業理念は、内藤代表執行役CEOが社長に就任した時に掲げたものです。それから30年以上の時間をかけて、hhc理念を社内に浸透させてきたわけですから、社内的にも非常に大きな存在感を示されています。IRに関しても積極的に情報を開示していこうというスタンスですので、投資家の皆さまからも高い信頼を頂戴しております。

渋澤  一般的に経営者は孤独になりがちです。それは周りの人間が忖度し、遠慮することによって正しい情報、必要な情報が伝わらなくなるからです。その点において内藤代表執行役CEOが経営判断を下すにあたって、どのような類のインプットを重視していらっしゃいますか。

小山さま  これは弊社に限った話ではなく、どの会社でもそうですが、経営にとって良い話もあれば、ネガティブな話もあります。また、日々の情報量は膨大ですから、ある程度の選別も必要になります。

そのなかで、どの情報を代表執行役CEOに伝えていくかについては、何といっても患者さんに影響を与える情報や患者さんの声を最重要視しています。これを代表執行役CEOにしっかり伝えていくという考え方が、会社全体に浸透しています。

渋澤  小山さんは今、IR部に所属して、見えない価値を見える化するためのプロジェクトに関わっていらっしゃいますが、具体的にどのような取り組みをされているのですか。

小山さま 昨年8月に出した「統合報告書2020」は、長期投資家とのエンゲージメントを重視した内容になっています。

具体的には、非財務資本の充実による企業の持続的成長をテーマにしており、ESGへの取り組みが企業価値に関係していることを証明するためこれまで蓄積してきたESGのKPI、88種類について平均12年遡って、1088のサンプルを28年分のPBRと重回帰分析したところ、20%程度のKPIで、統計的な優位性をもって正の相関が示されました

たとえばエーザイの場合、人件費への投資は5年後、女性の管理職比率の向上は7年後に、それぞれ企業価値の向上につながるという結果が出ています。その効果ですが、人件費投入を1割増やすと5年後のPBRが13.8%、研究開発投資を1割増やすと10年後のPBRが8.2%、女性管理職比率を1割改善させると7年後のPBRが2.4%、育児時短勤務制度利用者を1割増やすと9年後のPBRが3.3%、それぞれ向上することが分かりました。

これらの結果から、エーザイが取り組んでいるESGは、サンクコストではなく将来、企業価値を創造するための投資であると考えられます。もちろん、この実証実験は相関を示したものに過ぎず、因果関係までは証明できていませんが、5~10年後に500億円から3000億円の企業価値を生むものと考えられます。

渋澤  企業の見えない価値を可視化してメジャメントするだけでなく、企業の価値創造につながっているところまで立証しようという試みは、非常に面白いと思います。それを機関投資家に説明した時の反応はいかがでしたか。

小山さま  国内外で、この手の取り組みをしている企業はまだまだ少ないということもあってか、もっと具体的な話を聞きたいという問い合わせが増えています。なかには「相関性を示しているだけですね」といった厳しいお言葉も頂戴するのですが、関心が高まっているのは事実ですから、社内でも今、非財務諸表のKPIをどのように設定すれば良いのかについて検討している最中です。

渋澤  エーザイのPBRは現在3.2倍前後、時には4倍くらいまで上昇することもあります。もし株価が財務的価値とイコールと評価されるならPBR=1倍になるはずなので、それを超えているということは、そこに財務的価値という見える価値では評価できない、見えない価値が評価されていると考えることが出来ます。

見えない価値とは、言い換えればそこで働いている人たちが、どういう想いを持って日々働いているのかを示したものですから、PBRが1倍を割り込んでいる企業は、その会社の役員、従業員の価値がマイナスであることを、市場から突き付けられているようなものです。

御社の場合、この見えない価値の見える化を通じて、投資家としっかりしたコミュニケーションを取ってきたという事実があるので、相関関係が高まるのも当然なのでしょうね。

小山さま  いささか内容が難しかった部分はあると思います。すでに2021年の統合報告書の制作に向けて動き出しているところですが、弊社に長期投資して下さっている個人投資家、機関投資家の皆さまにわかりやすく、エーザイの中長期的な成長ストーリーを理解していただける内容にしていきたいと考えています。

渋澤  ありがとうございました。


2020年11月30日に開催したオンラインイベントのアーカイブ動画はこちらからご覧いただけます。

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